結局この長ったらしいブログはここが言いたいだけだった。
始まりはほんの出来心、
せっかく録音した曲である。少しこの曲について触れておこうと思っただけである。
まさかこんな一大事業になろうとは当初は予想し得なかった。悪意はなかったのだ。
第二主題の続きを見て頂きたい。この曲を何故弾いたのか、初めに思い出せぬと書いたが、こうして駄文を書き連ねていて、今はっきりと思い出した。
何を隠そうこの続きの部分が弾きたくて選んだのだ。
第二主題のフレーズが二回弾かれた後、突如現れる無邪気なアレグロ。左手の16分音符に乗って、突如五歳児が芝生の中を走り回るような無邪気さである。
大人の事情など微塵も感じられない。少なくともここには、三十路を過ぎて独身である後ろめたさや、今ローンを組んで東京にマンションを買うべきか、そういう心配は一切感じられない。
もちろんこれは筆者の問題であり、彼の問題ではない。けれども時代や才能は違えど、いつまでも十八の春ではいられないのは人の世の常であり、モーツァルトであっても例外ではない。
しかしここには、繰り返すが、それが微塵もない。
であるならば、そのままの無邪気さでカデンツを形成して終止すれば良いのである。それで万事解決。北方領土問題よりも遥かに簡単なことだ。それでなんの問題があると言うのか。
けれども彼はそれをしない。
代わりに2小節加えている。ありったけの孤独を、である。
右手二分音符でD-E-B♭-A、左手休符からの下部刺繍音を加えてのB♭-C-C♯-D。つまりⅡ-Ⅴ-app.(Ⅵへの倚和音)-Ⅵ、Ⅱから倚和音を通じての偽終止のⅥである。先にも書いたが短三和音のしかも偽終止に更に倚和音を加えている。そしてその倚和音の左手刺繍音が禁則を犯している。
B♮なのである。
そう、このB♮を弾きたくてこの曲を選んだのだ。今はっきりと思い出した。
この2小節、非常に孤独だ。たった独りだ。宇宙で独りっきりなのだ。直前まで無邪気を装っているから尚更である。いや、装っているわけでもないだろう。それはそれで本心ではしゃいでいたのであろう。けれども十八の春は二度来ない。
こういうところを見ると、この人は世間付き合いがよくちやほやされていても、根源的に誰からも理解されない、人は究極では誰一人理解できない、たった独りの存在という、人間の孤独を背負っていた人なのかなぁと、私のような凡人でも共感してしまうのである。
モーツァルトを弾くということは、孤独である。
「存在の耐えられない軽さ」
誰かが言った言葉である。
モーツァルトの楽譜と向き合うということは、人間の孤独と対面するということだ。人間の儚さと対面するということだ。
それはつまり自分と対面するということだ。と思うわけである。
千田
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